徳川家康による江戸の街づくりと歴代将軍の功績

勉強コラム

こちらの記事では徳川家康が行なった江戸(東京)の街づくりについて簡単にまとめつつ、主な徳川将軍の功績についてもお話します。

目次

家康の人生


徳川家康は愛知県の中で今の岡崎市(旧三河国)で1543年1月31日に生まれました。
江戸幕府を開いたので東京都出身と思う人もいますがそれは違います。
実は三英傑として知られる、「織田信長」「豊臣秀吉」「徳川家康」は皆、現在の愛知県の出身です。

父は松平広忠で岡崎城主でした。それから6歳のときに織田氏の人質として、8歳から19歳までは今川氏の人として育ちました。
1560年の桶狭間の戦いで今川義元が織田信長に討たれると、徳川家康は岡崎城に帰って自立しました。
1562年に織田信長と同盟を結び、信長を助けるとともに、今川氏・武田氏と戦って(長篠の戦い)、関東地方に向けて領地を広げました。
その間の1566年に、苗字を織田から徳川に変えました。織田信長の死後は、それに仕えていた豊臣秀吉と対立しましたが、結局、秀吉に従いました。

1590年に小田原の北条氏がほろびた後、関東6か国の領主にされたので、江戸城を根拠地にして、江戸の町づくりに力を注ぎました。
よって今の東京の街づくりは徳川家康の名残となっています。今の皇居があるところは昔江戸城がありました。

江戸(東京)の街づくり

昔は東京の日比谷のすぐ近くまで海が広がっていましたが、江戸城を建てる際に海水が入ってきやすいので埋め立てをしました。
また、北側は平坦な土地が少なかったのでその工事から東京の街づくりが始まったとされています。

河川を利用して江戸城を建てる資材を運ぼうとしたのですが、飛び地が多かったので埋め立てをすることがその点にも作用しました。
人々の暮らしについてですが、屋敷配分では、江戸城の北西側(今の台東区側)の高台の多くは家臣に配分し、城の東南側(今の港区側)の低地を町人地としました。この棲み分けは現在の山の手、下町の原型につながっています。

主な徳川将軍の業績

徳川家康の子供も徳川家の影響力を強めました。
3代将軍徳川家光は参勤交代の制度を作りました。これは各地にある大名を年に1度江戸へ来なければならないなどの仕組みです。
江戸から遠く離れた藩は参勤交代によって力を大きくできず押さえつけられました。

5代将軍の徳川綱吉は「生類憐れみの令」で動物を大切にしました。
8代将軍の徳川吉宗は享保の改革を行いました。これは年貢をふやし米価を調整するなどして幕府財政の再建をめざし、また行政の諸改革を推進しました。
また、上米の制を定め、各藩に対して1万石につき100石の割合で幕府に献上させました。そのかわり、大名の参勤交代の江戸在府期間を1年から半年に緩和しました。

足高の制では、有能なのに禄高が低いために登用できない人材を特定の職に就かせるため(禄高によって就任可能な職が決まっていたため)、その職についている期間だけ禄高をふやしました。
他にもキリスト教以外の洋書の輸入を緩和したり、金銭貸借に関する訴訟を当事者どうしで行わせて奉行所の負担をかるくさせる相対済令や、評定所前に目安箱を置いて、幕政への意見を一般から求めたりと、斬新な政策をつぎつぎに打ち出しました。
小石川療養所の設立は目安箱の投書がもととなっています。

2023年の大河は家康が主人公!

そして2023年の大河ドラマは徳川家康が主人公です。第1回は戦国時代から始まります。
教科書だけで勉強するのではなく、歴史は物語であるので徳川家康がどのようにして江戸幕府をつくり、江戸を強靭なものにしていくのかは親子で勉強していくのはどうでしょうか?