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幼少期から様々な学問に興味を示す
1904年、オッペンハイマーはドイツからのユダヤ系移民の子としてニューヨークで生まれます。
幼少期は非常に早熟であり、早くから地質学や数学、化学になどの様々な学問に興味を持っていました。
また、複数の言語も学んでおり、最終的に彼は6カ国語を話せるようになります。
このあたりはまさに「天才の幼少期」といった感じのエピソードですね。
ただ一方で、運動神経はあまり良くなかったそうです。
ハーバード大学を飛び級で卒業
現在、世界の大学ランキングで常にTOP10には入るハーバード大学。
オッペンハイマーはそのハーバード大学を、飛び級で3年で卒業しています。
彼が大学で専攻していたのは化学。バーバード卒業後はその知識をさらに深めるために、イギリスの超名門校であるケンブリッジ大学への留学や、ドイツのゲッティンゲン大学への移籍などを経て、最終的には博士号を取得しています。
カリフォルニア大学バークレー校で教鞭を執る
オッペンハイマーは1929年からアメリカの名門校、カリフォルニア大学バークレー校などで教鞭を執るようになります。
この時、生徒からはオッピーの愛称で親しまれていたようです。
【運命の分かれ道】原爆開発チームのリーダーに就任
第二次世界大戦が勃発すると、1942年にはアメリカにおいて、原子爆弾開発を目指すマンハッタン計画が開始されます。
優秀な科学者と評判だったオッペンハイマーは、原爆開発チームのリーダーに任命され、世界で最初の原爆を開発。
その後原爆は皆さんもご存じの通り、1945年に広島市・長崎市に投下されることとなります。
戦後オッペンハイマーは原爆の父と呼ばれ、多くのアメリカ兵を救った英雄として賞賛されましたが、本人はこのことに困惑するようになります。
さらに、既に降伏間近だった日本への原爆投下によって多くの犠牲者が出た事実を知り、深く苦悩するようになります。
冷戦突入後は【核反対派】へ
その後、時代は冷戦へと突入し、アメリカでは水爆などのより強力な核兵器開発が進むことになりますが、オッペンハイマーはこれに反対。
彼は先の経験から、核兵器は人類にとって巨大な脅威であり、人類の自滅をもたらすと考えるようになっていました。
トルーマン大統領に対しても、核兵器がもたらす甚大な被害を憂慮して、国際的な核兵器管理機関の創設などを提案しましたが、大統領はこの姿勢を弱腰と決めつけて無視します。
ソ連のスパイ疑惑をかけられる
冷戦下においてオッペンハイマーは、ソ連との核兵器競争を防ぐために動いていたことや、自身や家族が共産党の関わりがあったことからソ連のスパイ疑惑が持たれるようになります。
1954年には事実上の公職追放処分を受けます。
さらには私生活も常にFBIの監視下におかれるなど、生涯にわたって抑圧され続けることになります。
ガンにより62歳で死去
1967年、オッペンハイマーはガンにより62歳で亡くなります。
この当時のアメリカ人男性の平均寿命が67歳程度ですので、オッペンハイマーは少し短命であったといえます。
彼は生前、古代インドの聖典にある台詞を引用し、
「世界はそれまでと変わってしまった。我は死神なり、世界の破壊者なり」と吐露しています。
また、亡くなる2年前のインタビューでは原爆開発について
「大義があったと信じている。しかし、科学者として自然について研究することから逸脱して、人類の歴史の流れを変えてしまった。私には答えがない」
と発言しており、生涯にわたり自身が核兵器を生み出してしまったという事実に苦悩し続けていました。
弟のフランクはドキュメンタリー映画において
「ロバートは現実世界では使うことのできないほど強力な兵器を見せて、戦争を無意味にしようと考えていた。しかし人々は、新兵器の破壊力を目の当たりにしても、それまでの兵器と同じように扱ったと、絶望していた」
と語っています。
まとめ
幼少期から明晰な頭脳を遺憾なく発揮し、華々しいキャリアを築いていったオッペンハイマー。
しかし、戦争という時代の流れが彼の運命を大きく変えることになりました。
もし彼のような天才が平和な時代に生まれていたら、どんな科学者になっていたのか。その頭脳で、どんな発明をしていたのか。
少なくとも、自身のことを「死神」「世界の破壊者」などと言うような人生は送っていなかったはずです。