徳川家康の16人の子どもたち|全学年/社会科

勉強コラム

いよいよ放送が開始されたNHK大河ドラマ「どうする家康」
毎週日曜日が待ち遠しい人も多いのではないでしょうか。
同ドラマの主人公、徳川家康には、11人の息子と5人の娘の、合計16人もの子供がいることをご存知ですか?
この記事では、その16人の子供たちについて一人ずつ紹介していきたいと思います。
ちなみに、家康には生涯で20人の妻がいたと言われています。奥様の話はまた今度ということで,さっそく子供たちを紹介します。

目次

11人の息子について

■長男:松平信康(まつだいらのぶやす)1559年~1579年。【母は築山殿(つきやまどの)】
家康とともに多くの戦に参陣し勝利しました。
勇敢な武将として成長し、家康の後継者として期待されていました。
しかし,家康と敵対関係にあった武田信玄と内通しているのではないかという嫌疑をかけられてしまいます。
そのことを織田信長(信康の妻の父)が家康に伝え、家康は断腸の思いで信康に切腹を命じます。
信康は自身の嫌疑を晴らすことができないまま自害しました。この時、信康は21歳でした。

■次男:結城秀康(ゆうきひでやす)1574年~1607年。【母は小督局(こごうのつぼね)】
家康の子供でありながら母の身分が低かったために、家康の後継者としては認められず、豊臣秀吉の養子となりました。
その後、結城晴朝の養子となり、結城家の大名として徳川家を支え、関ケ原の戦いの後に福井藩67万石を治めました。

■三男:徳川秀忠(とくがわひでただ)1579年~1632年。【母はお愛の方(おあいのかた)】
江戸幕府2代将軍。妻は浅井(あざい)三姉妹の三女・お江(ごう)(信長の姪にあたる)。
大坂の陣で豊臣家を滅ぼし「禁中並公家諸法度」や「武家諸法度」などの法令を定め、幕政確立に務めました。
3代将軍家光の父にあたります。

■四男:松平忠吉(まつだいらただよし)1580年~1607年。【母はお愛の方(おあいのかた)】
家康の意向で井伊直政の長女と結婚し、徳川一族の結束を強めました。
関ケ原の戦いで大活躍し、家康から戦功として尾張藩52万石を与えられました。

■五男:武田信吉(たけだのぶよし)1583年~1603年。【母は下山殿(しもやまどの)】
武田氏の名跡を継ぎ、武田姓を名乗っていました。
秀吉の命令で木下勝利の娘と結婚しましたが、病弱だったため、21歳の若さで亡くなりました。

■六男:松平忠輝(まつだいらただてる)1592年~1683年。【母は茶阿局(ちゃあのつぼね)】
政略結婚により伊達政宗の長女・五郎八(いろは)姫と結婚しました。
家康から嫌われていたという噂もあります。家康の死後には兄の秀忠(2代目将軍)から領地を没収されてしまいました。
当時では長寿となる91歳で亡くなりました。

■七男:松平松千代(まつだいらまつちよ)1594年~1599年。【母は茶阿局(ちゃあのつぼね)】
生まれてすぐに深谷藩主となりましたが、6歳という若さで亡くなりました。

■八男:平岩仙千代(ひらいわせんちよ)1595年~1600年。【母はお亀(おかめ)】
平岩親吉の養子となりましが、松千代と同様、6歳という若さで亡くなりました。

■九男:徳川義直(とくがわよしなお)1601年~1650年。【母はお亀(おかめ)】
大坂冬の陣で初陣。この時義直は14歳でした。
家康の死後に尾張に入国し、徳川御三家(水戸・尾張・紀伊)の一つである尾張徳川家の家祖となりました。

■十男:徳川頼宣(とくがわよりのぶ)1602年~1671年。【母はお万(おまん)】
13歳の時に大坂冬の陣で初陣を果たしました。
家康の死後に徳川御三家の一つ、紀伊徳川家の家祖となりました。
8代将軍吉宗の祖父にあたります。

■十一男:徳川頼房(とくがわよりふさ)1603年~1661年。【母はお万(おまん)】
徳川御三家の一つ水戸徳川家の家祖。
3代将軍家光と親交が深く,「副将軍」と呼ばれました。
頼房の支えがあったからこそ、家光は3代将軍として幕藩体制の基礎を築くことができたとも言われています。
“水戸黄門”で知られる徳川光圀の父。

5人の娘について

■長女:亀姫(かめひめ)1560年~1625年。【母は築山殿】
家康の命令で、長篠の戦いで活躍した旧武田家臣の奥平信昌に嫁ぎ、5人の子供を儲けました。
信昌の死後に出家しました。

■次女:督姫(とくひめ)1565年または1575年~1615年。【母は西郡局(にしごおりのつぼね)】
北条氏直に嫁ぎましたが、その後、北条氏は滅亡しました。
その後に池田輝政と再婚しました。

■三女:振姫(ふりひめ)1580年~1617年。【母はお竹(おたけ)(と言われている)】
会津若松藩の蒲生秀行に嫁ぐも死別しました。
その後、和歌山藩主の浅野長晟と再婚しました。

■四女:松姫(まつひめ)不詳。【母は普照院(ふしょういん)または茶阿局(と言われている)】
若くして亡くなりました。

■五女:市姫(いちひめ)1607年~1610年。【母はお梶(おかじ)】
生まれてすぐに伊達政宗の嫡男(跡継ぎ)・忠宗と婚約しましたが、3歳で亡くなりました。

名字が違うのはなぜ?

ここまでお読みいただいた方は、同じ家康の息子なのに「徳川〇〇」という名や「松平〇〇」という名前があることに気付かれたと思います。
その主な違いは、

■「徳川〇〇」
徳川を名乗れるのは、徳川家康の直系のうち徳川将軍家と徳川御三家(水戸・尾張・紀伊=家康の子供が家祖)、徳川御三卿(田安・一橋・清水=徳川将軍家の分家)のみでした。
御三家に跡取りができなかった場合,御三卿から跡取りを養子として与える取り決めがありました。

■「松平〇〇」
徳川〇〇以外の子供には「松平」と付く人が多いです。松平は家康の旧姓になります。
なお,養子になった息子は養子になった先の姓を名乗り,娘は嫁ぐことが前提なので,姓は与えらませんでした。

といった事情がありました。

おわりに

多くの子供に恵まれた徳川家康です。
兄弟が多いことで争いの種になることも多々ありました。
一方で,子供が多いからこそ、250年続いた江戸時代の基礎を築くことができたとも言われています。
多くの子供を残したことは,家康の大きな功績の一つと言えるのではないでしょうか。

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こちらの記事の監修者

 浅井保(あさい たもつ)
・北海道大学文学部卒
・家庭教師のアルファ 講師部長
・山手中央高等学院 学院長

 
2008年に『家庭教師のアルファ』のプロ家庭教師として活動開始。
現在、株式会社アルファコーポレーション講師部部長、および同社の運営する通信制サポート校・山手中央高等学院の学院長を兼務しながら講師として指導にも従事。