徳川家康とはどんな人物だったのか

勉強コラム

【戦国きっての切れ者!激動の時代を駆け抜けた日本のニューリーダー】
徳川家康、正式には徳川次郎三郎源朝臣家康といい、戦国の世に生まれました。
小国の大名として織田信長との同盟を基軸に勢力を広げ、織田信長の死後台頭し、全国を統一した豊臣秀吉に五大老として仕えるも、彼の死後は関ケ原の戦い、さらに大坂夏の陣で豊臣氏を滅ぼし、全国支配を確立しました。
彼が開いた江戸幕府は278年もの間、日本全国を治めることになります。
この記事ではそんな家康の半生を簡単にまとめながら、その功績や人格について触れていきます。

目次

人質として過ごした幼少期

岡崎城主松平広忠の嫡男として生まれた家康は、幼名を竹千代といい、6歳の時叔父の水野信元が織田氏についた為、人質として今川氏の元へ送られます。
しかし途中で義母の父、戸田康光の裏切りで織田氏の元に送られることになります。
その後広忠が死去し、今川氏と織田氏の人質交換により再び今川義元の元へ送られ、そこで元服し、次郎三郎元康と名乗ることになります。

織田信長との共闘

ところが1560年桶狭間の戦いで、今川義元は織田信長に討たれます。
その後信長と対峙するも今川氏真からの支援はなく、元康は今川氏を見限り、信長と同盟を結ぶことにします。
そして義元からもらった元の字を返上して、家康と名を改めました。
さらに三河一向一揆を平定し、三河国を統一した家康は徳川に改姓しました。
その後は信長を助けて、浅井・朝倉連合軍との姉川の戦いなどで活躍します。

武田氏との戦い


家康最大の敵が、甲斐の武田信玄でした。
駿河・三河に侵攻してきた武田軍を織田軍と組んで迎え撃ちますが、惨敗します。
この時命からがら浜松城に逃げ帰った家康は城の門を開け放ち、武田軍を怪しがらせて追撃を防ぐという空城計を用いたとされます。
しかし突然武田軍は撤退、信玄の死を確信した家康は反撃に転じ、信玄の子勝頼と攻防を繰り広げ、ついに織田との連合軍により、長篠の戦いで武田氏に壊滅的な打撃を与え勝利します。

豊臣秀吉との対立

全国統一まであと一歩のところ、本能寺の変により信長は自害します。
その後家臣の中で台頭したのが羽柴秀吉でした。
信長の次男信雄と手を結び筆頭家老の柴田勝家を賤ヶ岳の戦いで破った秀吉は影響力を強めます。しかしその後秀吉と対立した信雄は家康に接近、ついに秀吉と家康は小牧・長久手の戦いで激突します。
ここで戦上手の家康を秀吉は攻めあぐね、全面衝突のないまま外交戦となり、やがて両者は和睦しました。
その後朝廷より関白に命じられた秀吉は豊臣姓を名乗り、家康を懐柔しようと実の妹まで差し出して臣従を求め、家康もこれを受け入れました。

関ヶ原の戦い


豊臣秀吉が最も頼りにし、かつ恐れていたのが徳川家康でした。
病床で自身の死を悟った秀吉は、くれぐれも息子の秀頼を頼みますぞと家康に懇願したと言われています。
秀吉の死後、五大老の一人だった石田三成と家康は対立し、ついには日本中の戦国大名が東西に分かれ、天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いが勃発。
しかしながら小早川秀秋の裏切りで、あっさりと決着がついてしまい、家康率いる東軍の勝利となりました。

大坂の陣


関ヶ原の戦いに勝利し、朝廷より征夷大将軍に任ぜられ、江戸幕府を開き、いよいよ天下をほぼ手中にした家康の最後の悩みの種が、未だに大坂城で影響力を持ち続ける豊臣秀頼、淀君でした。
なお、家康は2年で征夷大将軍の座を息子の秀忠に譲り、駿府城で大御所として政治を行うようになります。家康は秀吉の遺言通り、孫娘の千姫を秀頼に嫁がせるなどして豊臣氏と共存を模索していたとされています。

しかし政権を奪われた豊臣氏は次第に家康を警戒するようになり、ひそかに浪人を集めるなどしていました。
そして方広寺の鐘銘事件が起こり、幕府は豊臣氏に反逆の意ありとして宣戦布告。
大坂冬の陣が勃発します。しかしながら難攻不落の大阪城を一度に落とすのは難しく、真田丸での敗北もあり、一度は豊臣氏と和睦を結びます。

しかし外堀だけを埋める条件を無視して内堀まで埋めてしまい、その後内堀を掘り返そうとする豊臣氏に大坂城内の浪人の追放と移封を要求、拒否されると再び大軍で攻め寄せ、大坂夏の陣により、豊臣氏は滅亡します。

晩年

その後禁中並公家諸法度、武家諸法度を制定し、朝廷と全国の大名の支配体制を整え、徳川氏の264年に及ぶ天下の礎を築きました。1616年病に倒れた家康は駿府城にて息を引き取りました。75歳でした。
死因は鯛の天ぷらにあたったとも言われていましたが、最近の研究では胃がんが原因であったとされています。

武術と学問を好み多趣味だった家康

家康は武芸全般に通じ、剣術、馬術、弓術、鉄砲の扱いも得意だったとされています。
さらに吾妻鑑などの書物を好み、駿府城には一万点もの蔵書を集めた駿河文庫を作りました。
鷹狩と薬作りが趣味で、囲碁や将棋も達人でした。舞などは好まず、代わりに猿楽が得意だったと言われています。
健康志向で麦飯と魚の質素な食事を好み、倹約家として有名でした。

まとめ

鳴かぬなら鳴くまで待とう時鳥の歌に評せられるように、家康はまさに我慢の人でした。
十数年も間人質生活を送り、その後も信長・秀吉といった有力大名の下について、家康はひたすら学び、そしてチャンスを待つのでした。
現代においても家康に習い、いつその時期が来てもいいように大いに学び、いざという時に判断を誤らず、時流に乗り遅れることのないようにしたいものです。

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こちらの記事の監修者

 浅井保(あさい たもつ)
・北海道大学文学部卒
・家庭教師のアルファ 講師部長
・山手中央高等学院 学院長

 
2008年に『家庭教師のアルファ』のプロ家庭教師として活動開始。
現在、株式会社アルファコーポレーション講師部部長、および同社の運営する通信制サポート校・山手中央高等学院の学院長を兼務しながら講師として指導にも従事。