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石田三成との対立と関ケ原の戦い
織田信長と同盟を結び、東海地方に勢力をふるっていた徳川家康は、豊臣政権下あった1590(天正18)年に、北条氏滅亡後の関東に移され、約250万石の領地を支配する大名となりました。
この時、五大老の筆頭の地位あった家康は、秀吉の死後にその地位を高めていくことになります。
そのうち家康は、五奉行の一人で豊臣政権を存続させようとしていた石田三成との対立を深めていくことになります。
その対立が表面化し、ついに戦にまで発展したのが1600(慶長5)年のこと。
三成は、五大老の一人であった毛利輝元を盟主にして兵をあげました(西軍)。
それに対するのは家康と彼に従っていた福島正則・黒田長政らの諸大名の兵(東軍)で、両軍は関ヶ原で激突しました、これが有名な関ヶ原の戦いです。
天下分け目といわれるこの戦いに勝利した家康は、西軍の諸大名を処分することになります。
石田三成・小西行長らは京都で処刑され、また西軍諸大名93家・506万石が改易[領地没収]されました。
毛利輝元は120万石から37万石に、上杉景勝は120万石から30万石に減封[領地削減]となります。
江戸幕府の幕開け
1603(慶長8)年、家康は全大名に対する指揮権の正統性を得るために征夷大将軍の宣下を受け、ついに江戸に幕府を開きました。
これがまさに江戸時代の幕開けです。
家康は国内統治者として佐渡をはじめ全国の鉱山を直轄にして、アンナン(ベトナム)・ルソン・カンボジアに修好を求める外交文書を国の代表者として送ります。
また、全国の諸大名に江戸城と市街地造成の普請をし、国単位に国絵図と郷帳(国絵図と一村ごとの石高を郡単位で記載しこれを一国単位にまとめた帳簿のこと)の作成を命じて、全国の支配者であることを明示していきました。
大阪冬の陣・夏の陣
しかし、豊臣秀吉の息子・秀頼は、摂津・河内・和泉60万石の一大名になったとはいえまだ大阪城におり、名目的にも父秀吉以来の地位を継承している状態でした。
1605(慶長10)年に、家康は将軍職が徳川氏に世襲であることを諸大名に示すために、みずから将軍職を辞して、子の徳川秀忠に将軍宣下を受けさせることにしたのです。
この後、家康は駿府に移りましたが、大御所(前将軍)として実権は握り続けます。
豊臣氏が建立した京都方広寺の鐘銘を口実に、1614〜15(慶長19〜元和元)年に、大阪の役(大阪冬の陣・夏の陣)で豊臣方に戦いをしかけ、攻め滅ぼすことになります。
幕府は大阪の役の直後の1615(元和元)年に、大名の居城を一つに限り(一国一城令)、さらに「武家諸法度」や「分国法」を制定して大名をきびしく統制していきます。
1616(元和2)年6月1日家康の死後、2代将軍徳川秀忠が、1617(元和3)年に大名・公家・神社に領地の確認文書を発給し、全国の土地領有者としての地位を明示しました。