目次
三方原の戦いが起こった原因とは
信玄の遠江への侵攻という重大な軍事行動について、信長は事が起こるまで全く察知していませんでした。
これまでの信玄との友好関係を踏みにじられたことを知った信長は、信玄を激しく非難しました。
信玄の所行は誠に前代未聞の無道さであり、侍の義理を知らず、遺恨は尽きることなく、今後は未来永劫にわたり、信玄とは二度とふたたび相通ずることはないとしています。
そして、信長は、家康のもとに平手汎秀・佐久間信盛・水野信元らの加勢を送りました。
また、信長は、それに先立って、信玄を迎え撃つことになる家康側の備えに対する状況視察のために、梁田広正を派遣しました。
この時点では、将軍義昭から家康に対し信玄の遠江侵攻に対して、それを心配する手紙を出しており、義昭は、信長・家康の側に立っていました。
武田軍・出陣
武田軍は、攻略した二俣城から、1573年12月22日早朝出陣しました。
当初は、浜松城に向かうとみられていましたが、大菩薩辺りから西に転じて三方原台地に上がり、そのまま三河へ向かう構えをみせました。
信玄は、味方の犠牲も大きい攻城戦を避け、野戦を挑もうとしたものと考えられます。
すなわち、信玄は、家康が籠城したままで武田軍をやりすごすことはないだろうと見越して、いわばおびき出しを図ったのです。
家康軍・出陣
浜松城でこの武田軍の動きを知った家康は、織田方の加勢を含めた一万余りの軍勢でした。
2万5千ともいわれる武田軍に対し敢然として打って出て、いわゆる三方原の戦いになりました。
実は一般的に、兵力で劣る場合は、籠城戦に頼ることが多いのです。
しかし家康は圧倒的な兵力差があるにもかかわらず、なぜ浜松城から出撃したのでしょうか。
家康が出陣した理由
■理由①
第一に、信長との同盟関係があったからだと考えられます。
先に述べましたが、信長からは使者を送られて、分別ある対応を求められていました。
その上、加勢まで送られていながら、一戦も交えずに武田軍をやり過ごすようなことはできなかったと思われます。
信玄は、そのような事情を見抜いて、家康が打って出てくるだろうと確信し、三方原で待ち構えていたのです。
■理由②
第二に、家康に服属していた遠江・三河の将士が、つぎつぎに武田方に降っていくという状況がありました。
叶わぬまでも一戦に及び、存在感を示すことなしには、彼らをつなぎ止めることがむつかしいと判断したのだと思われます。
■理由③
第三に、そうは言っても、まったくの無謀な出撃ということであれば、自殺行為になりかねません。
地理的な優位性を生かし、三河方面へ向かっている武田軍を背後から追撃し、一撃を与えてさっさと浜松城に引き揚げるというような作戦を考えていたと思われます。
ところが、そのような思惑が外れ、武田軍は三方原で待ち構えており、両軍主力の激突になったため、まさに多勢に無勢、家康は、生涯に二度とない大敗を喫することになりました。
その後、1573年5月13日に、武田信玄は病死しましたが、もし、信玄が生きていたなら、歴史は大きく変わっていたでしょうね、
家康にとっての武田信玄
信玄との直接の交渉は、1568年後半の今川領国侵攻のための密約から始まったとみられますが、家康にとっては、遠江を手中にする大きなチャンスとなりました。
大井川を境とするという約束が守られていたならば、信玄とはお互いに棲み分けて、少なくとも当初は良好な関係を築くことができたかもしれません。
ところが、早々に遠江への野心をあらわにして、秋山虎繁の遠州見付にまで至る侵犯があったため、家康は信玄に対して強い不信感を抱くことになり、これ以降一貫して、信玄への対決姿勢を貫いていくことになりました。
翌年二月に誓詞の交換をし、関係修復を試みたのですが、家康の「疑心」は強く、誓詞に反する行動も行っています。
すなわち、誓詞には氏真や北条氏康父子らとは和睦をしないという一項が入っていたようですが、家康は氏真と氏康父子と和睦をし、氏真を沼津に去らせました。
信玄はこれを怒り、このような家康の対応をどう考えているのかと信長に問い詰めています。
家康と上杉謙信との接触
このことは、外交上の掛け引きにも繋がり、家康は、信玄と敵対していた越後の上杉謙信と接触するようになりました。
そして、1570年10月には、誓詞を交換し、ついに謙信と同盟を結ぶことになりました。
その第1条目で、信玄とは明確に断交することを誓い、さらに、2条目では、信長と輝虎とが入魂になるよう取りもつというだけではなく、武田・織田間の縁組も破断になるよう信長に働きかけるとまでいっています。
家康の信玄に対する並々ならぬ敵意が、よくあらわれているといえます。
家康には運が味方した!?
もし、信玄が、多少の犠牲を払うことになったとしても、勝ちに乗じて浜松城に攻めかかっていれば、城を落として家康を討ち取ることは十分に可能でした。
しかしながら、三河から美濃へと先を急ぐ信玄は、その体調の悪化もあって、刑部で越年するとそのまま三河野田城攻めに向かいました。
家康にとってはまことに幸運なことで、しかも、その後間もなくして信玄が死去したのですから、運も味方にしていたといえますね。
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