【鎌倉時代】源頼朝が生きた時代を見てみよう|全学年/社会

勉強コラム

2022年の大河ドラマでもスポットがあたり、今、『鎌倉時代』が世間から注目を集めています。
「鎌倉時代の大まかな流れを知りたい」
「しっかりと歴史の事実を調べたい!」
そんな方も多いのではないでしょうか。
そのような方に向けこちらの記事では、鎌倉時代、とりわけ源頼朝が生きた時代の大まかな流れを解説しています。

目次

源頼朝、処刑を逃れ幽閉生活へ

1159年、平治の乱で平氏に破れた源氏の主な武将は処刑されましたが、源頼朝は平清盛の継母である池ノ禅尼の嘆願により処刑を逃れ、命を助けられます。
このとき、頼朝はまだ14歳でした。
頼朝は伊豆の蛭ヶ小島に流刑され幽閉生活を送ることになりますが、この地では北条時政の監視はあったものの、意外とのんびりと暮らしています。

例えば、熱海にある伊豆山権現の学僧に学問を学んだり、地方豪族の若者たちと狩猟に興じたり、多くの女性とも付き合ったりしています。
(その後、頼朝は北条政子と結婚することになります)

源氏、平氏を西国へと追いやる

1180年4月9日、後白河法皇の子・以仁王による平氏打倒の令旨が諸国の武士に伝えられ源頼政が王を奉じ挙兵します。
8月17日、頼朝もそれに呼応する形で挙兵します。
9月7日、源(木曽)義仲も信濃で兵をあげます。
10月21日には源義経が兄の力になるべく頼朝に合流することになります。
そして平清盛の病死なども関係し、戦況は源氏優勢になり、ついに1183年7月28日、義仲が入京し平氏を西国へと追いやることになります。

頼朝、平氏を滅亡させる

1184年に義仲が征夷大将軍に任じられますが、法皇は後白河法皇との天皇後継問題での対立や、義仲の軍の横暴や風紀の悪さに耐えかね、頼朝に義仲討伐を依頼します。
頼朝は弟の範頼と義経を京に派遣し義仲軍を倒すよう指示します。
この時、頼朝は義経の忠義にもかかわらず、義経をうまく利用していきます。
義経の天才的な戦い方もあり一ノ谷の戦い、屋島の戦い(平家物語にもある那須与一の扇の的はこのとき)、そして1185年3月壇ノ浦の戦いでついに平氏を滅亡に追いやります。

頼朝は若き頃清盛に助けられたことを教訓に、平氏には一切の情けをかけませんでした。
頼朝は鎌倉を拠点に東国を平らげていき、1185年全国に頼朝の息のかかった「守護・地頭」を置き勢力を全国へ広げることになります。

源義経との対立

頼朝は平氏を滅ぼすうえで、多くの功績をあげた義経ともそりが合わず対立するようになってしまいます。
1189年には奥州藤原氏が義経を殺害。しかし、奥州藤原氏も頼朝により滅ぼされます。

征夷大将軍任命

翌1190年に朝廷より、頼朝は右近衛大将に任じられます。
さらに1192年7月12日には征夷大将軍に就任。名実ともに鎌倉に幕府が開かれ、貴族出身の大江広元が実務の中心となります。

しかし以前から頼朝に忠誠を誓ってきた武士にとっては納得のいくものではありませんでした。
それでも頼朝が築いた武士政権はその後明治維新までおよそ700年続くことになります。

頼朝は東国の武士と主従関係を結び、御家人となった武士は彼を「鎌倉殿」と呼び従うことになっていきます。
また、頼朝と御家人は「御恩と奉公」という主従関係で結ばれます。

頼朝の死

こうして政治の実権をにぎった頼朝は、さらに権力を定着をさせるため天皇家の外戚になろうと娘の大姫の入内を進めますが、1197年大姫は急逝してしまいます。
武士のための政権を作ることを望んできた武士たちにとっては、この頼朝の朝廷への近づきに不満があったと思われます。

1198年12月27日、稲毛重成が亡き妻のために相模川河口付近の馬入川に橋を架け、頼朝はその橋の落成供養に出席しますが、帰り道で落馬し亡くなります(死因は諸説あります)。
このとき、頼朝53歳でした。

鎌倉幕府は頼朝と北条政子との長男の頼家、次男の実朝と引き継がれることになりますが、わずか3代で源氏将軍の血筋は途絶えることになってしまいます。
その後、幕府の実権をにぎったのは皮肉にも平氏一族の北条氏となります。

頼朝エピソード

流鏑馬(やぶさめ)
1187年源頼朝が天下泰平を祈願して鶴岡八幡宮で開催したことをきっかけに、流鏑馬は神事・儀式の一環として盛んにおこなわれるようになります。
鎌倉時代以後、流鏑馬は武士にとって欠かせない武術の一つになり、各地の神社で流鏑馬がおこなわれます。
笠懸(かさがけ)・犬追物(いぬおうもの)と合わせ騎射三物と呼ばれる。

鎌倉幕府創設はいつ?
「いいくにつくろう…」と覚えた1192年だとする意見は学会では少数派となっています。
頼朝が本拠地を鎌倉とし、侍所を設置した1180年、頼朝が朝廷から東国支配権を与えられた1183年、頼朝が右近衛大将に任命された1190年など諸説ある状態です。
ちなみに最も有力なのは上記、守護・地頭を設置した1185年です。

語句説明

■征夷大将軍
平安時代初期から東北地方の蝦夷(えみし)を討伐するために新たに置かれた役職です。
しかし、時代とともにそのイメージは薄れ、鎌倉時代になると幕府を開く武士のトップという地位に変わっています。

■御恩
頼朝が御家人を地頭に任命することで先祖伝来の所領の支配を保証すること(本領安堵)。
ほかに新たな土地を受け取る(神恩給与)、朝廷の官職に推挙、などが挙げられます。

■奉公
軍役があれば鎌倉へ向かい命を懸けて頼朝のために戦うこと。
「いざ鎌倉へ」の合言葉は有名ですね。ほかに京都大番役や鎌倉番役としての警護、内裏・幕府・寺社などの修造役となる関東御公事、などがあります。

※上記内容は諸説あるものもあります
※参考文献 「マンガでわかる日本史」河合敦 著

おわりに

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こちらの記事の監修者

 浅井保(あさい たもつ)
・北海道大学文学部卒
・家庭教師のアルファ 講師部長
・山手中央高等学院 学院長

 
2008年に『家庭教師のアルファ』のプロ家庭教師として活動開始。
現在、株式会社アルファコーポレーション講師部部長、および同社の運営する通信制サポート校・山手中央高等学院の学院長を兼務しながら講師として指導にも従事。