清少納言と紫式部はどんな人?|全学年/国語

勉強コラム

誰もが国語の時間に触れたことであろう「枕草子」、そして古典文学の金字塔「源氏物語」。
これらの作品に共通することといえばそう、どちらも「女性の手によって書かれたもの」だということです。

時も同じく平安時代。「かな文字」を始め、あらゆる日本独自の文化「国風文化」が生まれた時代であり、その象徴ともいえるのが、先述の二作品です。
これらの作品が生まれた背景はどんなものだったのでしょうか。
また、作者の清少納言、紫式部とは、どんな女性だったのでしょうか。

目次

勝ち気で明るい漢詩マニア、清少納言


清少納言は、著名な歌人であった清原元輔の娘として生まれました。
和歌や漢学を学ぶ環境に恵まれ、その知識は相当なものであったと伝えられています。

そしてその才を買われ、一条天皇のお妃である中宮定子の家庭教師として、宮中仕えすることになります。
明るく何でもはっきりと言い、ユーモアに富んでいた清少納言は、大層定子に気に入られて寵遇されました。

当時は漢文は男が学ぶものという考えが一般的であったにも関わらず、勝ち気な清少納言は並いる男たちを前にして、その膨大な漢文の知識を堂々と披露してはうならせた数々のエピソードが残っています。

勢力争いに巻き込まれ、引き篭もって書いた「枕草子」


ところが定子の父、藤原道隆が逝去すると、清少納言の立場が変わってしまいます。
道隆の逝去によって弟の道長が権力を強め、定子の兄が策謀により流刑になると、
「清少納言は道長方のスパイだ」という噂が流れてしまうのです。
清少納言は宮中を出て、家に閉じこもってしまいます。

早く清少納言に戻って来てほしいと願う定子は、彼女に当時としては大変貴重だった上質な紙を20枚も贈りました。
清少納言は大変喜んで、その紙に宮中でのできごとを色々と書き込んでいきました。
そうして生まれたのが「枕草子」です。

その後定子の思いに応えて宮中に戻った清少納言でしたが、道長の娘、彰子が中宮となり、定子は産後の衰弱によりこの世を去ってしまいます。
あまりに悲痛な出来事にショックを受けた清少納言は、また宮中を去って隠遁生活に入ります。

非公開のはずが大評判となった「枕草子」

最初は非公開だったはずの「枕草子」ですが、ある時、家を訪ねてきた左中将・源経房が読んで
「これは面白い!」と、持って帰って世間に広めてしまいます。

これが大好評を博し、それを受けて清少納言は加筆を続け、10年ほどでついに「枕草子」が完成しました。
その後、尼となった清少納言はひっそりと京都の東山で暮らし、やがてこの世を去りました。

内気で自意識過剰な日本史オタク、紫式部


一方、紫式部は学者で詩人の藤原為時の娘として生まれます。
母親を早くに亡くした紫式部は父の元で育てられ、その為家にある歌集や漢詩、歴史書などを読みつくしてしまい、その文学的才能を育むことになります。

そして20代後半で藤原宣孝と結婚しますが、20歳年上の夫は女性との浮名が絶えず、紫式部は寂しい思いをすることになります。
紫式部は夫との間に一女をもうけるものの、3年ほどで夫とは死別し、その悲しみの中で「源氏物語」を書き始めたと言われています。

彰子の家庭教師として宮中へ

その頃、その文才を買われて、中宮彰子の家庭教師として仕えることになった紫式部。
彰子には歌人として有名な和泉式部も仕えていました。

そんな中で目立つことを恐れ、漢文の素養もひた隠しにしていましたが、彰子が漢文に興味を持った為、こっそり教えていたところ、父の道長にばれてしまいます。
先述の通り、当時漢文は男が学ぶものという認識でしたが、道長は娘が漢文を学ぶことを応援したそうです。

大ベストセラーとなった「源氏物語」


そして紫式部の書いていた「源氏物語」は宮中で大評判となり、やがてそれは帝の耳にも入り、ついには道長の目にも止まることになります。
文学オタクでもあった道長は「源氏物語」を絶賛し、紫式部は強力なパトロンを得て、五十四帖にも及ぶ大長編を完成させることになります。

紫式部は清少納言が嫌いだった!?

紫式部は「紫式部日記」という優れた日記も残していますが、その中にある清少納言について書いた下りが有名です。

(原文)清少納言こそ したり顔にいみじうはべりける人 さばかりさかしだち 真名書き散らしてはべるほども よく見れば まだいと足らぬこと多かり
(意訳)清少納言なんて得意顔で漢字を書き散らしているけど、よく見たら間違い多いし大したことない。

(原文)そのあだになりぬる人の果て いかでかはよくはべらむ
(意訳)こんな人の行く末にいいことなんてあるだろうか。(いや、ない)

と、かなり辛辣に酷評しています。

一方「枕草子」でも、清少納言が紫式部の夫、藤原経房を批判するようなことを書いている為(しかも死んだすぐ後に)、それを知った紫式部は激怒したといいます。
これらのようなことから、仲が悪かったというイメージもある二人ですが、実際には会ったことはなく、紫式部が清少納言の才能に一方的に嫉妬していただけという見方もあります。

まとめ

明るくユーモアに満ちていた清少納言、プライドが高く自意識過剰だった紫式部。二人の性格の違いはその作品に象徴されています。
しかし、そこからは共に、二人の天才の目を通して見た平安時代の貴族社会が色鮮やかに浮かび上がるようです。
とかく女性の社会進出が叫ばれる昨今において、彼女らの生き方、考え方からは多くを学べるのではないでしょうか。