【徳川家康】の名前の変化に見る幼少期~青年期

勉強コラム

皆さん、「徳川家康」の名前はご存じかと思います。
数多くいる歴史上の人物の中でも最大級の知名度を誇る人物です。
徳川家康は室町時代に生まれ、激動の戦国時代、これまた最大級の知名度を誇る織田信長や豊臣秀吉らと同じ時代を戦国大名として生き抜きました。
そしてついには武士の頂点である征夷大将軍に就任、江戸幕府を開いたのです。
その人生は、初めから順風満帆だったとは言い難いものです。

この記事ではそんな徳川家康人生、特に戦国武将として頭角を現す前の幼少期~青年期について、その名前の変化と共にご説明したいと思います。
教科書には載っていない部分ではありますが、時代を感じ興味を持つきっかけになれば幸いです。
なお、歴史上の出来事は完全に解明されてはいないため諸説あることをあらかじめ申し上げておきます。

目次

生まれた時の幼名は「竹千代」

室町時代後期にあたる1542年、徳川家康は三河国、現在の愛知県東部で戦国武将である父・松平広忠、母・於大の方(おだいのかた)の下に生を受けました。
お隣の尾張は織田信長の生地になりますね。
徳川家康は生まれた時から徳川家康だったわけではありません。
日本では昔、武士の子が元服、すなわち成人するまでは幼名といって子供時代だけの名前が与えられました。

徳川家康の幼名は竹千代でした。
この竹千代という幼名は、家康の子秀忠、孫家光をはじめ代々徳川家で使われており、後継ぎとしての期待のこもった名前となります。

幼少期から苦労の連続

そんな竹千代は幼いころから早くも大変です。
父の松平広忠が治める三河は、西は織田信秀(信長の父)、東は今川義元と強力な勢力に挟まれ、いつ侵略されてもおかしくない状態でした。

1547年、織田信秀は三河の岡崎に大軍を送ります。総攻撃とみた松平広忠は従属関係でもあった今川義元に援軍を求めますが、今川義元はその代わりに人質として竹千代を寄越すように言います。
裏切りが常の時代ですから、こういった手を打つことは珍しくはありませんでした。
竹千代は今川義元の治める駿府国に送られることとなりますが、護送役であった戸田宗光によりなんと織田信秀にお金で売られてしまいます。

織田信秀は人質として手に入れた竹千代を使って松平広忠を脅しますが、広忠はたとえ我が子を殺されようとも、と屈することはありませんでした。
これを聞いた織田信秀はその覚悟に感嘆し、竹千代を現在の名古屋市にある万松寺に送ります。
この万松寺ですが、後に織田信長の父信秀の葬儀が執り行われたお寺でもあり、このとき徳川家康は織田信長と知り合ったという説もあります。

一方、竹千代を奪われた今川義元は激怒します。
竹千代を売った戸田宗光の田原城を攻め落とし更に織田を攻めることとなります。

8歳のときに父が亡くなる

そんな中1549年、竹千代の父、松平広忠が亡くなります。
竹千代は織田の人質であった為、父の最期を看取ることはできませんでした。
それからすぐ、今川義元は織田信秀の子、信広の安祥城を落とし捕えます。

竹千代はこの織田信広との人質交換により今川義元の下、駿府に送られます。竹千代が8歳の時でした。
駿府での竹千代は幼い間、母の母、すなわち祖母に面倒をみられ教養を与えられます。
人質であった竹千代ではありますが、三河の大名の子で身分、人質としての価値が高く、ずっと狭いところに押し込められたまま、というイメージとは違ったようです。

14歳で「元信」の名を与えられる

1555年、竹千代は14歳のときに元服し、名も松平次郎三郎元信となります。
この元信の元は今川義元より与えられたものとされます。

翌年松平元信は祖先のお墓参りの為、三河国岡崎への一時里帰りを許されます。
この時初めて、父・広忠のお墓参りもできました。
この時元信は、岡崎城にていつ元信が帰ってきてもいいように、すぐにでも立派な大名として動けるようにと家臣が準備しているのを見せられ、いずれ人質の身などではなく独立するのだと誓ったといわれます。

16歳で結婚。名を「元康」と改める

1557年、松平元信は名を元康と改名し、16歳で今川義元の姪、瀬名姫と結婚します。
この年に一人前の武士となった元康は今川義元の命令で初陣を飾り、見事勝利し武功を上げます。

しかしその2年後、京都を目指して軍を動かしていた今川義元が織田信長に敗れ戦死します。ご存じ、桶狭間の戦いです。
この時先鋒として動いていた松平元康は、これを機に今川家と決別し、駿府ではなく故郷、三河国岡崎へと戻りました。

18歳で「家康」と名乗る

そして元康は自分の国の統一へと動き、1563年には名前か「元」の字を返上、松平家康と名乗るようになります。
いかがでしたでしょうか、家康と名乗るまでの徳川家康の人生。
ここから先は、教科書でもみる、まずは同盟関係となる織田信長の快進撃へとつながっていきますね。
現代では名前が変わることはあまりありませんから、もしかしたらこんがらがってしまうかもしれませんね。

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こちらの記事の監修者

 浅井保(あさい たもつ)
・北海道大学文学部卒
・家庭教師のアルファ 講師部長
・山手中央高等学院 学院長

 
2008年に『家庭教師のアルファ』のプロ家庭教師として活動開始。
現在、株式会社アルファコーポレーション講師部部長、および同社の運営する通信制サポート校・山手中央高等学院の学院長を兼務しながら講師として指導にも従事。